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本ページは、今の日本に対する私(=筆者)の認識と考えを、短くまとめたものです。
その多くを防衛省OB太田述正ブログ(以下、コラム)に拠っており、私なりの簡単なコラム紹介も兼ねた構成となっています。随所でコラムのリンクや抜粋があります。
補足
- 読み易さを優先し、抜粋にあたり少し省略・改変した箇所があります("<>"の省略、リンクの短縮など)。
- こういうの* もリンクです。
- 文中、長くなる部分はこのように折り畳みました。
1.
今の日本を退廃的だと感じておられる方も少なくないと思いますが、そうなった理由は明確にあります。
それは日本が終戦後、自ら主権を放擲したことです。
2.
抑も日本とは何でしょう。
次は、私なりの「太田日本史観」の要約です。
- 「世界が争いによって人心荒廃していく中で* 、そうなっていなかった日本人の、生来の "悟り" を、内外の脅威から守り抜くため、"武" を人為的に創造する。そして相反するこれら二つを、共存させる」──この聖徳太子の思想* を理念とした文明が、日本文明。
- 建国* 以来、極めて優秀な少数の有力者たち* が中心となり、脅威の撃退を続けながら、消極的ではなく積極的な平和創出システムを構想し* 、「武力行使も選択肢に入れた、悟りの世界的普及」へとその理念を拡大させていった* 。そしてそのための対外戦争を何百年もかけて準備し* 、遂に桜田門外の変から始まり* 先の大戦の終戦で終わった85年余の長期にわたる戦争を実行し、その戦争目的── "武" に偏った騎馬遊牧民やヴァイキング由来の諸勢力、に回復不可能な痛撃を加えるとともに* 、世界を "悟り" 復興の緒につかせる──をほぼ達成した* 。
- しかし終戦後、日本人が自ら米属国* となることを選択するかたちで、その理念は(日本本土においては)潰え、日本文明は終わりを迎えた* 。その属国路線に切り替えた昭和天皇* 、属国路線を恒久化した岸信介* 、今もなお最軍備を要求しない国民、の総意* からなる戦後日本は、主権国家としての存在意義を失い* 、そのことが必然的に、中央政府に組織的腐敗(=脳死)を齎して久しい* 。
- そんな戦後日本の宗主国である米国は、朝鮮戦争以後、日本に再軍備を要求している。そして未だ再軍備しない日本を軽蔑している* 。
- 戦後日本は、近い将来、米国の相対的没落* とともに台頭する中共(中国共産党)に、(絶対に再軍備しないことによって自動的に)宗主国移行するための準備を進めている* 。
- 大日本帝国陸軍と提携関係にあった中共* は、終戦までの日本文明・理念を仰ぎ見ており、その「続き・仕上げ」に取り組むとともに、日本文明の総体継受に努めている* 。そして(黄禍論の抑制の他、)属国に甘んじる戦後日本に再軍備を促す目的もあって、屢々「反日」政策や、日本に対する「威嚇」を行っている* 。
- 戦後日本は、高度経済成長を果たし、世界第二の経済大国となった。しかしそれは "戦前" の置き土産だった戦争体制とそのメンタリティーが齎したものだった* 。(世界史の観点で)戦争は、世界の科学技術や国家制度の発展に決定的な役割を果たしてきた* 。よって、戦後日本のその後の経済的停滞は、それらの風化によるものだ、ということになる。
- 戦後日本は、"武" を放棄し、日本文明より前のプロト日本文明* へと回帰してしまったが、当時とは異なり、世界は国際化時代になって久しく、よって、今までは(先の大戦での主敵であった)米国の属国であり続け、また、そう遠くない将来には(先の大戦で手を携えて戦った)中共の属国になることだろうが、ますます募っていくであろう経済的停滞に人口減少も加わり、日本の衰亡は加速していくことになろう。
つまり日本のアイデンティティ(=武装が標準の世界で自分たちはこうありたい)が、終戦までは「武力を用いてでも世界中を平和にしたい」だったのに、戦後は「世界とかどうでもいいから、一番強い者の庇護の下、武力とは無縁でぬくぬくしていたい」に変わってしまったということです。
3.
太田史観の特徴は、比較的単純な原理* で歴史を捉えることです。
殆どの人は単純なことしか理解できない
私が文明論的アプローチを旨としていることは、皆さん、ご承知の通りです。
そして、いかなる文明であれ、それは、比較的単純な原理で動いているはずである、と私が考えていることもご存知の方が多いことと思います。
その理由ですが、どんな社会においても、複雑なことを理解できる人間なんて殆んどいないのであって、支配者だって、当人がたまたま複雑なことを理解できる知的エリートであったとしても、被支配者達が当然視しているところの、その文明の「比較的単純な原理」に逆らうような統治を行うことは不可能に近いはずだからです。
いや、特定の社会における知的エリートでさえ、当人が支配者であると被支配者であるとを問わず、無意識的に、自分が属する文明の「比較的単純な原理」に羈束されている、とまでは言えなくても、強い影響下にある、とも私は見ているのです。──コラム#7156(2014.9.2)
また、コラムでは独特の用語* が使われます。
特に下記が主要概念です。
まずはざっくりイメージしておくと、以降も読み進めやすいと思います。
| 理念型 | 超簡単な説明 ・一般用語としての縄文、弥生とは別。 ・人間(じんかん)主義と読みます。 |
|---|---|
| 縄文性 (人間主義) |
抑圧されていない、自然な人間の本性。 |
| 弥生性 (非人間主義) |
軍事/安全保障感覚。 |
日本文明は世界で最も普遍性のある文明
……以上は、日本史関係者において、戦後つい最近まで猖獗を極めたマルクス主義史観や、戦前からずっと大流行りの私が言うところの「ぶつ切り出たとこ勝負史観」──歴史を諸局面に分解しそれぞれの局面の成り行きをその時の諸勢力の思惑や力関係等のせめぎ合いの結果として説明し、これら諸局面を並べて串刺しにしただけの史観──、という二つの対蹠的な日本史観、に対する異議申し立てでもある。
さしずめ、私の世界史観は「一筆書き・理念/軍事重視史観」、日本史観はこれに「家」を加えた「一筆書き・家理念/軍事重視史観」、といったところか。
その上で、上から目線過ぎるとのお叱りは甘受するが、私は、日本文明は、菊ならぬ縄文性、と、刀ならぬ弥生性、という、本来は水と油の関係にある二つの属性を共存させることに成功した奇跡の文明であって、それは、人為的に形成された理念に基づいて上からの働きかけで生み出された、世界で最も普遍性のある文明である、と、言いたいのだ。──コラム#14360(2024.7.27)
……太田一筆書き日本史のモチーフそのものが、この「ほぼ人間主義者達集団が行ったところの、ほぼ非人間主義者集団への対策」だったのであって、日本史とは、この対策が概ね功を奏し、世界史を飛躍的な形で前進させる目途がついた時に、意外な形で終焉を迎えたところの、ある国(ある文明)の歴史であった、と言ってよいのではなかろうか。──コラム#15215(2025.9.27)
釈迦だって、人間主義文明たるインダス文明人の(恐らくは個人ベースであったと思われるところの)人間主義維持手法(コラム#7304)を発掘し、それを人間主義回復手法の中核としただけなんだけどね。
日本文明も人間主義文明であるところ、そのインダス文明との違いは、(個人ベースの)人間主義維持/回復手法を必要としなかった──人間主義を人間主義的に維持してきた──点と、人間主義文明が外敵によって滅ぼされないメカニズム(弥生性)を備えていた点、の2点だな。──コラム#8061(2015.11.29)
4.
下記は、安全保障一般論です。
「国を守るとは、言うまでも無く、国民の生命を守ることで」あるはずがない
……「国を守るとは、言うまでも無く、国民の生命を守ることで」あるはずなかろ。
そんなの常識じゃん。
仮にそうなら、死刑なんてとっくの昔に廃止されてなきゃおかしいってことになるし、もっぱら自国民によって構成される自衛隊──当然生命の危険を冒して任務を遂行することになる──など、憲法第9条があろうがなかろうが、廃止しなきゃならないってことになる。
いや、国費でまかなってる警察官や消防士だっていちゃダメだ。国民それぞれが、自然権としての正当防衛や緊急避難の範囲で適当に危険に対処してくれってことにさえなりかねない。
要するに、人間は単なる動物的存在ではない、という前提の下、個々の国民の生命より大事なものがあるという考えに立って、自国民や外国人の生命に優先順位を付与する営みが国を守るということ、すなわち安全保障なのさ。
グローバルスタンダードにおいては、安全保障が政治、就中中央レベルの政治における中心的課題だ、と私が言っているのはそういう意味なのさ。
では、どうして内外、とりわけ外からの軍事的脅威に対処する軍事的安全保障が、安全保障の中でもとりわけ重視されているのだろうか。
それは、そのような脅威は、「自国民や外国人の生命に優先順位を付与する営み」、すなわち主権の行使──をできなくする恐れがあるからだ。
ここまで、分かったかい?
別の角度から議論を補っておこう。
交通事故で毎年1万人近くの人が生命を失っているけど、自動車を全廃しようという意見どころか、バスやトラック以外の自動車を廃止しようという意見すらないよね。
これは、毎年約1万失われる生命よりも、もっと優先順位の高いものがあるってことなんだよ。
新型インフルだって、水際防御が効果があったかどうかの議論がなされてるけど、完全に人の海外との往来を絶つという、究極の選択肢なんて誰も口にすらしてこなかったよね。
そうすりゃ、新型インフルによる生命の喪失を完全に食い止めることができるにもかかわらずだ。
そもそも、新型インフル用のワクチンだって、全所要をみたすだけの数量を確保するって話もないよね。(副作用による死亡のことは、とりあえず横に置いておく。)
このすべてが、国による生命の優先順位の付与の結果なのさ。
もう一度言うが、この自「国による生命の優先順位の付与」ができるかどうかが、日本に主権があるかどうかのメルクマールであり、だからこそ、それを奪われないようにするための軍事的安全保障は重要であり、かくも重要な軍事的安全保障を米国にぶんなげている戦後日本は、米国の属国なのであって、本来の意味での独立国じゃないのさ。──コラム#3492(2009.8.30)
弥生の概念の喪失(元農水事務次官長男殺害事件について)
<K.K>
≫太田コラム読者の中からさえ、いまだに元農水次官を擁護する声が出て来るが、どうしてそんな声がおかしいかを、太田コラムの日本史論を援用して指摘してみてたもれ。≪(コラム#10599)
「元農水次官=元政府高官」は、縄文人ではなく弥生人であるべきであって、政府高官の世界は、弥生の世界であるべき。
そして、弥生人である以上、
I.武の行使を始めとした厳しい選択を採ることはあり得る。
II.しかし、武の行使を始めとした厳しい選択を採る以前に、そのような事態に至らないように普段から取り計らうべき。
III.厳しい選択の運用を誤った場合、他者によって死をもたらされる、または自死せざるを得ない状況になることがあると覚悟するべき。
また、時として、厳しい選択をせざるを得ない事象の発生を許したことを恥じて、自死する場合もあり。
といった風であるべきだと思います。
今回の「元農水次官を擁護する人」も「ひきこもりに対して安楽死を主張している人」も、Iの行為を擁護/主張しているだけであって、IIとIIIを忘れている点では同じではないかと思います。
IIとIIIを忘れて、Iのみを行った人を擁護する、Iのみを主張する、Iのみ他者が行ってくれることを期待する、というのは、典型的な縄文人の論理だと思います。
縄文人が縄文人に対して、縄文の論理を展開するのはおかしくはありませんが、縄文人であっても、本来弥生人の世界であるべき政府高官の世界に対しては、弥生の論理を展開するべきだと思いますし、かつての縄文人にはそういう人が居たと思います。
縄文の論理を本来弥生の世界であるべき世界に展開して何の疑問も抱かない、すなわち縄文と弥生の区別ができなくなってしまっているであろうこと、すなわち恐らくは弥生の概念を喪失してしまっているが故に、縄文の論理を語っているのに過ぎないのに弥生の論理を語っていると思い込んでいるであろうことがおかしいと思います。
<太田>
概ね、私の想定解答に近いのではないでしょうか。
(中略)元次官に関しては、(中略)自分が弥生系人達の領袖的存在の一人、ないしは、その重鎮的輔佐者の一人、という立場であったにもかかわらず、自分の家庭内に発生した(発生させた?)厄介者を、同種の厄介者達諸問題の一環、つまりは、政府の機能不全の一徴表、と、受け止めるどころか、この厄介者達諸問題はもとより、この個別厄介者問題、すら、長年放置、いや、むしろ助長、し続けた挙句、自らがこの問題の当事者のレベルにまで成り下がって暴力的犯罪を起こしてしまった、という意味で、強く非難されてしかるべきなのです。
農水省は、そんな諸問題ないし個別問題の所管官庁ではない?
いや、中央官庁の官僚は、どの部署にいても、国民全体への奉仕者であって国政全体について心配すべきなのであり、所管外の事柄であっても、問題があると思ったら、所管部署関係の友人や知人の官僚に知らせたり問題提起すべきなのです。
官僚達は、共通の出身大学学部、出向、合同研修、異業種勉強会、等を通じて、そのような友人、知人には事欠かないのですからね。
そこまで官僚に期待するのは酷だろうって?
そりゃそうかもしれないけれど、厄介者達諸問題ならぬ個別厄介者問題に絞って考えるとしても、「そのような友人、知人」に相談した形跡すら元次官にはなさそうなことはどうでしょうか?
一民間人であったら容易に辿り着くことができないところの、日本で最も適切な相談相手を紹介してもらえたかもしれないにもかかわらず————。──コラム#10601(2019.6.7)
5.
何様だと思われそうですが、所感を述べます。
自覚なき属国志向とは「知らない誰かの犠牲の上に成り立つ恩恵には与っていたいが、自分は知らない誰かの犠牲になりたくない」という態度の内面化だと思います。ですから、そうした背中しか見ずに育った私たちの大部分は、そうでない生き方を理解したり信じたりできなくなっている──自分たちがそうした価値観を自明視していると自覚はできたとしても、そこから抜け出そうとは思わないしそういう言葉も出てこない、結局は周囲の顔色を伺いながらそこに居座り続けるための思考や言動に励んでしまっている──軍事安全保障に限らず、何に対しても──そう考えるのが自然だと思います。
日本文明の中心にいた超天才たちも、それ以外の少なくない人々も、個の才能や寿命などよりはるかにスケールの大きな意味の下に生きていた、ということを私はコラムを通じて知り、この社会への茫漠たる疑念はかなり晴れたと感じますし、自意識も変わりました。
6.
とはいえ私も、次のとおり「そんなもん」かもしれません。
……日本人の圧倒的多数を占めてきたところの(私の言う)縄文人ってそんなもんであって、戦争そのものに真に関心などなく、自分達や自分達の祖先が受けた戦災をまるで自然災害の一種であるかのように受け止めている以上は、それが大凶事であったとしても……それを起こしたのが「自然」だったのか「人間(米国)」だったのか、なんて、極端なことを言えば、どうでもいいんですよ。──コラム#15249(2025.10.14)
しかしこのページを作る程度には、そういう自分に腹は立ちます。
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ*
社会は変えようがないとか、こんなページを作っても大して見られないとか、そうした事に拘うことなく、余計なことも言わず、淡々と自分に向き合っていたいです。
(2026年1月 筆者)