単純な原理
コラム#8493(2016.7.18)
……その「スペクトラム」や「モンゴルの軛」に限らないのだが、──自然科学は、私見では、複雑な事象をできるだけ単純な原理で理解し説明しようとするものであるところ、──どんな人間社会でも社会事象は複雑怪奇であるものだが、人々は複雑怪奇な社会事象について、できるだけ単純な見方でもって理解し説明しようとするものであって、その単純な見方に従って社会は動いたり、運営されたりしている、と私は考えており、諸文明(や諸文明同士のせめぎあいが織りなす世界史の諸時代)ごとに、それぞれの文明(や時代)の担い手達の多くが共有していた、固有の単純な原理が何であるか、何であったか、を見出そうと努めてきた。
(というのも、社会を動かすためにはもちろん、単に運営するだけだって、指導者層単独では不可能なのであって、一般民衆をある程度その気にさせて巻き込まなければならないわけだが、一般民衆が、複雑な見方ができるはずがないし、指導者層だって、どれだけ彼らが知的エリート達を擁していたとしても、基本的にその点で決定的な違いはないからだ。
複雑怪奇なものを、ほぼそのままの形で受け止め、複雑に理解し説明しようなどとしていたら収拾が付かなくなるどころか精神がおかしくなってしまいかねないし、仮にそれらを免れたとしても、自分達の間での複雑な見方と、一般民衆を巻き込むための単純な見方とをTPOに応じて使い分けるなどといった器用なことを長続きさせるのも容易ではなかろう。)
コラム#10042(2018.9.1)
6 終わりの終わりに
……歴史は、この時代の日本だけではなく、基本的に、選良から大衆に至る大勢の人達が共同で動かしていくだけに、これらの人々を動かすものは単純な原理である場合が大部分だ、とかねてから私が力説していることを思い出していただきたいのであり、戦前昭和史の場合、それが、島津斉彬コンセンサスであって、その、当時における主たるトレーガーが杉山であった、というのが、私の主張であるわけです。
コラム#12833(2022.6.25)
……私は現在73歳だが、明治元年(1868年)に73年を足すと1941年、つまり、対英米戦開始年になる。
で、何度か指摘してきていることだが、自分のこれまでの歩みを振り返ると、70年なんてあっという間だ、と心底思う。
実際、西園寺のケースで言えば、彼は幕末に既に日本の政治史に残る活躍をし、1940年に亡くなるまで、その活躍を続けた。
私が何を言いたいかというと、幕末から先の大戦までは一瀉千里であって、本人または本人とその子くらいでもって駆け抜けることができたのであって、駆け抜けるにあたって、その本人はまたはその本人とその子が同じ思いを抱き続ける、ということはありうるし、現に、日本の幕末から終戦まではそのような人がたくさんいた、ということだ。
更に言えば、日本の指導層のコアの部分は、私の言う、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの実践という思いを共有してこの時代を駆け抜けたのだ。
そのコアの部分の指揮を執ったのが、幕末における近衛忠煕からバトンを受け継いだ、大久保利通であり、次いで山縣有朋であり、次いで西園寺公望であり、最後に牧野伸顕だったわけだ。
そして、最終段階で、西園寺と牧野を補佐したのが杉山元だった。
そのことを、今回のII部を読んで得心いただくことができたとすれば、それに過ぎる私の喜びはない。
コラム#2900(2008.11.8)
2 19世紀末以降の日本史
(1)基本的スタンス
歴史を語るにあたっては、それが事実を踏まえたものであるかどうかについて、慎重の上にも慎重を期すべきだ。
それはそれとして、「正しい」歴史認識などありえない。各自の抱いている価値観に照らし、「もっともらしい」歴史認識であるか「もっともらしくない」歴史認識であるかどうかだけだ。
歴史認識について語る際には、自分の価値観を明らかにすべきだ。
私の価値観は、専制は悪で自由は善、しかしアナーキーは悪、機会の平等が追求されるべきで、無抵抗の人間を殺すことは極力避けなければならない、というシンプルなものだ。
言うまでもなく、これはアングロサクソン的価値観だが、基本的に日本的価値観でもある。
「侵略」とは何かとか、「侵略」は常に悪か、といった議論には私は関心がない。
戦争(冷戦を含む)については、どちら側が、より上記価値観に則った言動を行っているかどうかを見極めた上で、評価を下すよう心がけている。
これは歴史に対する価値観的アプローチだが、文明論的アプローチであると言ってもよかろう。
近現代においては、世界は地域史を超えて共通の歴史を織りなすに至っている。日本は、この世界の近現代史の中心的なアクターではない。よって日本を中心とした日本近現代史を描くことは生産的ではない1。
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下記参照。
……さて、今回の八幡市での二回の講義用の原稿は、私のこれまでの到達点であることはもとより、総決算であると言えるのであって、もはや、私にとって日本史に関して残されている懸案は731部隊の陵虐行為の説明くらい──邪馬台国論争なんてのはどうでもいい話です──であって、その他のあらゆる懸案の説明がついた以上は、後は、中身の充実と細かい誤りの訂正くらいしかやることはない、と言えそうです。
また、私の現時点での日本史観の、基本──先の大戦に日本は予定していた通りに勝利した、その背後には、厩戸皇子から杉山元に至る、日本の武士創出、次いで武士活用、プラン、があった、また、戦後日本を作ったのは昭和天皇であり、その背後には光格天皇家の家論があった、等、を、史料不足においてはともかくとして、論理において、論駁することは、未来永劫不可能であろう、と、自負しています。
これは、とりわけここ数年の私の取り組みが指数関数曲線的に成果を上げることにつながったからだ、と、勝手に自負していますが、この曲線は、今回の講義準備の過程でも垂直に近い形で続いたところ、それを可能にしたのが、USさんを中心とするスライド作成支援グループの皆さんから作業の途中で寄せられたコメント群であり、スライド作成そのものと共に、この際、かかる皆さんのお力添えに対し、心から御礼申し上げます。
(文十郎さん、TKさんの八幡市講義への2回の参加、そして、文十郎さんによる私の京都駅から会場への都合二回の「ライドシェア」、お疲れ様でした。)
また、こういった機会を与えていただいた、八幡市の前市長と現市長、及び、ロジを担当された同市職員の皆さん、にも謝意を表したいと存じます。──コラム#14421(2024.8.26)
……とはいえ、イギリス史も日本史も、世界史の一部に過ぎないというのに、どうして世界史の説明全体が極めて出来の悪いものになってしまうのだろうか?
それは、私見では、世界史の中の、19世紀までの大分岐の時代の世界史、と、20世紀からの大分岐解消の時代の世界史、の中心的推進国が、それぞれ、イギリスと日本、であるからだ。
そして、イギリスと日本が、かかる中心的推進国となったことには、後述するように、両者が非常に似通った側面があることも無縁ではないところの、必然性、があったのだ。──コラム#15369(2025.12.13) ↩