帝国陸軍と中国共産党の提携
コラム#14417(2024.8.24)
[最初の雑談–前回の補足]
二 帝国陸軍と中国共産党の提携
「1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。後に毛沢東は米国記者エドガー・スノーに日露戦争当時の日本の歌詞を紹介し、──当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです、と伝えている。」(コラム#7820)
「中学入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧月性の詩「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した。」(コラム#7989)
「毛沢東は、自分が教師に向いていると思い、日本留学経験のある校長孔昭綬の下で、湖南第一師範学校に学んだ。
卒業後に、「半植民地国家に陥った支那が西欧列強に対抗するため、強い国民の必要を感じ、日本などの軍国民教育思想に啓発されて始まった体育重視の思潮の影響下で書かれた毛澤東の「体育之研究」は、支那の「近代史上において体育理論について全面的に論じた最初の著作」と評価されている。──
また、新文化運動の最中の──1919年──に武者小路実篤らが実践していた「新しき村」の消息が支那に伝わった。みずからの労働によってみずからの生活を支えたうえで、自由を楽しみ、個性を生かせる生活を全うすることをめざした「新しき村」の精神と実践に毛澤東は憧れを抱いた。生徒の個性の束縛や学校教育と社会とが遊離している状況などについて批判的精神を持っていた毛澤東は、1919年12月「学生之工作」を書いて工読思想についての構想を次のように述べた。新しき村を作り、そこで新しい家庭、新しい学校、および新しい社会を一体とする新しい生活を営む。新しい生活とは、生産的実際的農村の活動である。その中での新しい教育は新しい家庭、新しい社会の創造と関連すべきであり、新しい生活の創造に重点をおく、と毛澤東は述べた。毛澤東は現状の学校教育の非生産的、非実際生活的、読書人は都会をめざして農村をきらうといった弊害を批判し、農村を嫌う読書人を農村に行かせ、直接に生産に従事させ、現在の社会に必要とされる製品を生産させる。同時に地方自治の中堅としての役割、現代の選挙制度の指導監督者としての役割を読書人が果たすことを提案したのである。」
⇒毛沢東は、筋金入りの日本大好き人間だったわけだ。
ちなみに、毛沢東が中共建国後に作った人民公社は、ソ連のソホーズやコルホーズに範をとったものではなく、新しき村を参考にしたものだ、というのが私の見方だ。(コラム#13381)(太田)
「哲学者で東大教授だった廣松渉は、中期以降のマルクスは、集団主義と個人主義を、いわば弁証法的に止揚して、私の言うところの人間主義思想家となった的な指摘をしたが、──日本大好き人間の毛沢東が、毛なりに、それが日本人のそれと近似した人間主義思想であると直感したからこそ、マルクス主義に惹かれた、と想像を逞しくすることも可能──です」(コラム#8012)
⇒付言すれば、エンゲルスが使い始め、マルクスも採用した原始共産制なる社会体制「では、健全な身体を持つ全ての人間は食料の獲得に従事し、狩猟や収集により産み出されたものを全員が共有する。原始人の生活では産み出されたものは即座に消費されるため、余剰は産み出されず、衣服などの個人的な物品を除けば私有財産はほとんど存在しなかったであろう。長い時間存在したものは道具や家などわずかであり、それらは共同で保持された。そして国家は存在しなかったであろう。」*
とされるところ、これぞ、私の言うところの人間主義社会チックであって、マルクス主義は、この原始共産制を産業化(工業化)社会において実現しようとするイデオロギーである、と言ってよく、廣松を持ち出すまでもなく、毛沢東は、マルクス主義の当時の最新形態であったマルクスレーニン主義が、当時の日本のような産業化社会における人間主義社会、へと支那を変換させるための権力奪取/維持方法を教えてくれるのではないかと考え、中国共産党の創立メンバーになった、と、思うのだ。
(このことを象徴的に示しているのが、ユダヤ人同士でマルクスとも親交があったハイネ──日本以外で、日本人の人間主義性に最も早く気付き、讃嘆した著名人だ──が登場するところの、芹洋子の四季の歌、の、中共での、やや大げさに言えば準国歌扱いだ。(コラム#13381))
そんな毛沢東に、提携相手として杉山元らが白羽の矢を立てた──ちなみに毛沢東のスペアは恐らく日本留学経験のある周恩来であったろう──のは、ごく自然なことと言える、と私は思う。(太田)
「1927年11月、上海の党臨時中央政治局、が拡大会議を開き、──毛沢東──は会議に欠席のまま政治局候補委員から解任された。1928年7月、第6回党大会において中央委員に選出。
井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。
⇒1931年には杉山構想が実行に着手されたと私は見ているところ、毛沢東が福建省に根拠地を拡大した時点までに、杉山元らは毛沢東を蒋介石政権打倒後に支那を託すべき指導者の少なくとも一人として選んだと見るべきだろう。
というのも、福建省は、日清間の1898年の「清は、福建省内および沿岸一帯を,いずれの国にも譲与または貸与しない──,そして、」福建省を日本の勢力範囲と認めた」福建省不割譲協定、* 及び、日仏間の1907年の「フランスは広東・広西・雲南を、日本は満州と蒙古、それに秘密協定によって福建を自国の勢力圏として相手国側に承認させた」日仏協約、* ──中華民国及び諸列強から異議は表明されていない──に基づき、福建省の一部が事実上ソ連に貸与された、といったクレームをつけ、必要に応じて出兵する「権利」があったにもかかわらず、日本政府はこの事態を静観しているからだ。(太田)
毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月に瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。
⇒瑞金が、江西省の東端に位置し、福建省に隣接している* ことに注意。(太田)
しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。国民党軍による包囲に対して、毛や朱徳など前線司令部は、「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」というゲリラ作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた。毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、1932年10月、毛は軍の指揮権を失った。また、毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。さらに1933年1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。毛は1934年1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。
⇒この毛沢東を、その失権期間、杉山元らが支えていた可能性を排除できない。(太田)
国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日についに江西ソビエトを放棄して敗走し、いわゆる「長征」を開始する。この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義(じゅんぎ)で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。毛沢東は中央書記処書記(現在の中央政治局常務委員)に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。
⇒杉山元らは快哉を叫んだに違いない。(太田)
1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。
⇒毛沢東が、どうして、延安を長征の目的地としたかが問題になる。
ソ連の属国化していた外蒙古には近かったけれど、その間には、日本の勢力圏(上出)と言ってもよい内蒙古があった* ので、ソ連との安定的なルートが確保できる保証はなかった。
私は、杉山元らが、日本の傀儡国家である満州国に近く、内モンゴルを通じて、日本/満州国との秘密裡の接触が容易な延安を勧めた、と、考えるに至っている。
しかし、このようなスキームを秘匿するためには、日本が内蒙古を傀儡国家したり満州国に併合したりしてはならないことになる。
日本が自分で中国共産党を壊滅しようとしないことの説明がつかなくなるからだ。
だからこそ、杉山元らは、関東軍が主導したところの内蒙古の傀儡国家化計画を2度も挫折させたのだ。
(1度目は、1936年9~11月の綏遠事件に対し、参謀本部作戦部長心得であった石原莞爾──かねてよりの杉山元の手駒──が妨害し(コラム#4008、4010)、2度目は、1937年8月のチャハル作戦に対し、関東軍参謀長であった東條英機──杉山構想被開示者──が自分を指揮官とする察哈爾(チャハル)派遣兵団(俗に「東條兵団」と言われる)を編成して中途半端な作戦を行って妨害した(コラム#13512、14401及び下掲* )。(太田)
同年12月7日に朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権も掌握。5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蔣介石監禁事件(西安事件)で──宿敵である蔣介石と手を結び、第二次国共合作を構築。」*
⇒「共産党軍は国民党軍の剿共戦(そうきょうせん)により21万人から7万人まで勢力を弱め、陝西省・甘粛省の2省に追い詰められていた。」* のが、1936年12月の西安事件によって、毛沢東は九死に一生を得るわけだが、これは、杉山元らが毛沢東と組み、張学良に工作をして事件を惹き起こさせた、と見てよかろう。
杉山元らが目をつけたのは、かねてから「反共親日」の姿勢を日本側に開示していた汪兆銘であり、彼は、狙撃され、療養を兼ねて欧州外遊中だったが、その妻で夫の留守中の情報収集をまかせられていた陳璧君* から、狙撃されるまで蒋介石政権の行政院長(首相)をやっていた汪兆銘とその後陳璧君が集めたところの、オープンになったら蒋介石政権と癒着する宋孔陳蔣のいわゆる四大家族からなる浙江財閥* が同政権と共に支那から追放されかねない腐敗情報を入手した上で帝国陸軍が収集分析してきた関連情報と綜合させて整理した上で、この情報を、狙撃事件の時に「いち早く犯人に駆け寄って犯人を蹴り倒し」(上掲)てくれたことから汪と親交が生じていた張学良に、陳璧君から、と偽って渡し、この情報を公開するぞと蒋介石を脅せば言うことを聞かせることができると伝える一方で、別のルートで、張学良に、父の仇の日本を憎み国を愛するのなら、中国共産党を救い、蒋介石政権と中国共産党を再合作させた上で日本と戦うべきであると吹き込み、西安事件を惹き起こさせた、と、私は想像をたくましくするに至っている。
(だからこそ、蒋介石解放交渉に、尻に火がついた宋美齢が浙江財閥を代表して核心メンバーとしてしゃしゃり出てきた、と。)
その後、蒋介石も張学良も、西安事件の時のことを一切しゃべらないまま亡くなり、とりわけ、蒋介石が、西安事件のもう一人の蒋介石政権側の裏切り者たる楊虎城は家族もろとも殺害したけれど張学良は50年間軟禁した上で解放せざるをえなかった*(前掲)のは、張学良が蒋介石が自分を殺せば、この秘密が暴露される手筈にしていたからだろう、とも。
なお、杉山元らは、この情報を、汪兆銘に南京政府を作らせる際、秘匿することを誓わせる一方で、ひそかに米国のしかるべき人物に流すことで、米国自身が収集した情報と併せて、米国をして、終戦後、蒋介石政権を見限らせた、とも。(太田)
「日支戦争当時、毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。──毛沢東は延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだ。
⇒西安事件の後、紆余曲折を経て、翌1937年の4月までに第二次国共合作がようやく成立したところ、支那世論の支持こそ得られたが、蒋介石政権内では反発が強く、蒋介石が亡くなったり失脚したりすれば、その後継国民党政権によってすぐ反故にされる恐れがあったこともあり、杉山元らと毛沢東は、相談の上、中国共産党軍が国民党軍を装って盧溝橋事件を惹き起こし、更にこれを日支戦争へと導き、合作を強固なものにすることに成功した、と見る。
そんな毛沢東が、日支戦争中に日本軍を心中応援していたのは当たり前だろう。(太田)
毛沢東は、裏で日本軍と手を結び、蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ていた。延安で八路軍が栽培していたアヘンの販売で日本軍と結託していたし、また積極的に占領区内の日本軍と商売を行い、晋西北の各県は日本製品であふれていたし、中共指導者と日本派遣軍最高司令部の間で長期間連携を保っていた。ちなみに、毛沢東の代理人は、南京の岡村寧次(やすじ)大将総本部──岡村が総司令官の時に限らず支那派遣軍総司令部、という趣旨か(太田)──隷属の人物であった。」(コラム#7572)
⇒こういう関係を、ズブズブの関係と言う。(太田)
「日本敗戦直後、毛は──「たとえ、われわれがすべての根拠地を喪失したとしても、東北(旧満洲国)さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と述べた。──」(コラム#7820)
⇒それこそが、杉山元らによるところの、満州事変/満州国建国、の主たる目的であった可能性すらある。(太田)
「「天皇陛下によろしく」-。1956年9月、北京。毛沢東は、侵略戦争に関わった日本の元軍人代表団を招待し、「戦犯」だったはずの昭和天皇にメッセージを投げた。一方、昭和天皇もひそかに中共側にメッセージを送り続け、「訪中」を悲願とした。」*
⇒毛沢東は、杉山元らのボスを(実は貞明皇后だったのに)昭和天皇だったと誤解したままだったということだろうし、昭和天皇は、日本が支那に多大なる迷惑をかけたし、将来、米国に代わる宗主国に支那がなる可能性がある、と、考えていたので、罪償の訪中が念願だったのだろう。(この念願を後に、天安門事件後の欧米から総スカンをくって窮地に陥っていた中共に、上皇が、皇太子の岳父が外務次官の時に、私見では上皇のイニシアティヴで訪問して救ってやる形で果たす(コラム#14168)ことになる。)(太田)
「毛沢東(1893~1976年)は、──1964年7月、日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返した。──なお、毛沢東が戦後日本の天皇制を批判したことは無い。──」(コラム#7177)
「エドガー・スノーは、──1964年から1965年にも再々訪中したが、そのときにも、毛沢東は──、支那大陸における中国共産党による赤化革命成功には「(彼らの敵であった)蔣介石だけでなく、日本の8年にわたる侵略が必要だった」と語っている。」*
「1970年代に国務院副総理陳永貴が日支戦争のとき「漢奸」だったと告白した際、毛沢東はそれを一笑に付して、「日本人はわが救命恩人だ。命の恩人の手伝いをし、漢奸になったということは、つまりわたしに忠誠を尽くしたということだ」と言った。」(コラム#7820)
⇒毛沢東は、単にホンネを吐露し続けていただけであるわけだ。(太田)
「ノーベル経済学賞受賞者であるアマルティア・センは、毛沢東が、日本の教育政策と医療政策を中共に移入した、という趣旨のことを指摘している」(コラム#7989)ところ、いや、彼は、ありとあらゆるものについて、日本を範にしてきた、というのが私の見方なのだ。
以上、私が述べてきたところの、日本大好き人間たる毛沢東を象徴するのが、下掲の事実だ。(太田)↓
「中華人民共和国では旭日模様のデザインが中国共産党の下で積極的に好んで利用されてきた歴史があるが、──これは毛沢東が旭日模様をとても気に入っていたからとの指摘がある。」*
例えば、毛沢東思想万歳ポスター、文化大革命ポスターを見よ。* , *
なお、鄧小平は、日本に経済協力を求めてそれを実現させた一方で(欧米の目を眩ませるために)南京事件記念館建設といった反日政策を開始する(コラム#6666)。
また、習近平──私見では非血統承継天皇制の中共での樹立を追求している(コラム#省略)──は、(私が気付いたのは2016年(コラム#8407)だが、)2013年に国家主席に就任した頃から、私が名付けたところの、公然たる日本文明総体継受政策を推進しつつ、(私が気付いたのは2020年(コラム#11381)だが、)中共が日本の宗主国にさせられるのを回避すべく日本の再軍備を図るために日本を口撃等を行う、という、ダブルスタンダード的な対日戦略をとって現在に至っている。
最後にもう一点。
三田村武夫の帝国陸軍統制派アカ論* という、トンデモ陰謀論を、対米英戦の真最中に近衛文麿が、また、戦後に岸信介が、信じ込んでしまった(コラム#10042)背景に、この2人が、帝国陸軍──実は杉山元ら──と中国共産党が通じている気配を感じ取っていたことがあったのではないか、と、私は見るに至っている。