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昭和天皇

コラム#12833(2022.6.25)

[一見吉田がマッカーサーに恩義を感じるゆえんなし]
三、ゼネスト中止命令

 ……さっそく私は、この本(電子版)を買って読むことにしたのだが、読む以前にこの時点で、日本の新憲法に武力放棄規定を入れさせた首謀者は昭和天皇である、との確信的ひらめきを得た。
 というのも、私は、以下のことを、(防衛官僚であったことから、)一つずつ、その都度一般の日本人達よりも痛切な思いを抱きつつ、既に認識するに至っていて、件の首謀者が昭和天皇ではないか、と、次第に疑いの念を強めつつあったからだ。
 順不同で列挙しよう。↓

A:
 「昭和天皇は、自分の長男で皇太子の明仁、及び明仁の後を襲うことになるそれ以降の諸天皇が、(軍令の最高責任者として)聖断を下さなければならない立場になることを回避させることを期して「皇族身位令 第十七 条皇太子皇太孫ハ満十年ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス 親王王ハ満十八年ニ達シタル後特別ノ事由アル場合ヲ除クノ外陸軍又ハ海軍ノ武官ニ任ス」* を停止または廃止して、1943年(昭和18年)12月23日に満十年に達した* 後も、明仁を陸軍及び海軍の武官に任官させなかった」(コラム#12208)

 これは、時期も時期だけに、大変な決断ではないか。一体どうして?

B:
 「四五年六月、終戦の方針を立てた昭和天皇は貞明皇太后の説得に臨んだ。実母と会う前には緊張感から嘔吐し、面会後はまる一日寝込んだ。」(コラム#12194)

 母が戦局を熟知していることくらいは昭和天皇にも分かっていたはずなのに、終戦不可避、間近し、と伝えるだけでそこまで緊張するだろうか?

C:
「終戦翌年の1946年(昭和21年)4月より、学習院大学英文科教授のイギリス人であるレジナルド・ブライスを、英語の家庭教師として迎える。また、同年10月から1950年(昭和25年)12月まで、父・昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ばせる」という新しい皇太子への教育方針に従い、アメリカ合衆国の著名な女性の児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。」*

 そこまでやるか、と言いたくなるくらいの、米国に媚びた姿勢としか見えないが?

D:
 上皇の天皇時代の不自然な慰霊の旅。↓
 「天皇(現明仁上皇)皇后両陛下の──日程* ──の中で明確に慰霊を目的としたもの(と明記されているもの)は、以下の二つ──米自治領北マリアナ諸島サイパン島──訪問(平成17年(2005年))と、* パラオ──訪問(平成27年)*  ──だが、「──≪今上≫陛下≪(現明仁上皇)≫ないし宮内庁/安倍内閣の判断はおかしい。
 (サイパンでの慰霊を既に行っていただいているところ、)いい加減、(一貫して本土扱いであった)硫黄島での慰霊を行っていただきたかったし、海保船での宿泊よりも自衛隊での宿泊を先行させていただきたかった──。↓
 「──足を運ばれる激戦地ペリリュー島では、日本政府が設置した「西太平洋戦没者の碑」に加え、米軍の慰霊碑にも供花され、──宿泊先には海上保安庁の大型巡視船を初めて利用される──」* ──」(コラム#7563)

 また、海保の船ではなく、自衛艦を使われるのが旧陸海軍軍人達の慰霊という慰霊目的に照らして筋だし、この巡視船に両陛下が宿泊する部屋を設ける工事をした(典拠省略)ことも、どうせカネをかけるのなら、海上自衛隊には、例えば、迎賓艇があって、「はしだて」が1999年に就役していた* のだから、同艇を改装する方が、改装後にその部屋を別用途に活用できる──同艇は病院船としても使用される(上掲)──ことから、費用対効果上、より適切だったはずだ。
 これは昭和天皇の話ではないが、日本の上層における家論の継承性に鑑みれば、その子たる天皇は、昭和天皇の意向を受け継いでいると見るべき。
 天皇家の執念めいたものがひしひしと伝わってくるが──。

E:
 そもそも、「≪昭和天皇も今上陛下(現明仁上皇)も、自衛隊の部隊や機関の公式訪問を一度もしておられない。
 今上陛下(現明仁上皇)は、≫国内では、遅きに失したきらいはあるが、慰霊目的で平成6年に硫黄島にも訪問をされているが、それに続いて≪自衛隊部隊がいない≫父島訪問≪も≫されているところ、そちらでは「視察」を何か所かでされているというのに、≪自衛隊部隊がいる≫硫黄島ではされておらず、──自衛隊部隊「視察」──つまり公式訪問──を徹底的に避けられていることが明確に分かる。」
 なお、昭和・今上両天皇が、自衛隊の栄誉礼* を単独で受礼されたことがないばかりか、日本を訪問した外国元首が自衛隊の栄誉礼を受礼する際においてまで、国際慣行に反して巡閲に同行されてこなかったこと、外国を訪問された際に、これまた国際慣行に反して、同外国軍の栄誉礼を受礼する際に、巡閲に駐在武官等の自衛官ではなく、同外国の武官を随行させてこられたこと、* も思い出し──た。」(コラム#9370)

 これは、いかなる存念に基づくものだったのだろうか?

 Aは、昭和天皇が、1943年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、* 5月29日には、アッツ島で日本軍守備隊が玉砕した* 頃までには敗戦を予期し始めた、と、私は想像しており、カイロ宣言から、米英が日本の無条件降伏まで戦うと宣言したところ、その無条件降伏とは、日本の陸海軍が占領軍の管轄下に置かれて解体される、ということを意味する(注4)、と受け止めた上で、天皇制の継続(国体の維持)を確保するために、占領が形式上終了しても、実質的には占領を継続してもらい、日本の陸海軍が解体された状態、すなわち、日本が武装解除された状態を恒久化することを見返りとして連合国に提供することを決意したからだ、と私は考えるに至っている。

 (注4)「1943年11月27日にカイロ宣言が発された後、12月1日にはラジオを通じて「カイロ・コミュニケ」(Cairo Communiqué)が発され、連合国が日本の無条件降伏まで軍の配備を続ける(軍事行動を継続する)と宣言した。」*
 「米国の、国際慣行法をまとめた戦時法の手引き(野戦マニュアルFM27-10『陸戦法』)では無条件降伏について「無条件降伏は、軍隊組織を無条件に敵軍の管轄下に置く。両当事国による署名された文書を交わす必要はない。戦時国際法による制限に従い、敵軍の管轄下に置かれた軍隊は、占領国の指示に服する」(478条)と定義している」*


コラム#14417(2024.8.24)

3 新しい日本史:戦後
(2)明治天皇と島津斉彬コンセンサス信奉者達の暗闘
  オ 昭和天皇による日本文明否定

 この富田メモは、昭和天皇が靖国神社への親拝を停止したのは、A級戦犯を合祀したことにあるとするものである。新聞報道が行われた当座の段階では、メモの信憑性をめぐって議論が巻き起こり、内容を否定する人間も少なくなかった。
 しかし、その後、昭和天皇の侍従を22年間にわたってつとめた卜部亮吾の日記が平成19(2007)年に刊行され、その昭和63年4月28日の項目に、「お召しがあったので吹上へ 長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国の批判・奥野発言のこと」と記されていた上、平成13年7月31日の日記にも、「朝日の岩井記者来……靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」などと記されていた(御厨貴・岩井克己監修『卜部亮吾侍従日記』全5巻、朝日新聞社)。
 徳川義寛侍従長も、歌人の岡野弘彦に対して、「(A級戦犯)の人達の魂を靖国神社へ合祀せよという意見がおこってきた時、お上はそのことに反対の考えを持っておられました」と語っている(岡野『昭和天皇御製 四季の歌』同朋社メディアプラン)。
 こうした記録がある以上、富田メモに信憑性があると考えないわけにはいかない。何より、A級戦犯が合祀されて以降、昭和天皇が靖国親拝を行っていない事実が、その点を雄弁に語っている。しかも、──徳川侍従長は、靖国神社の側からA級戦犯の合祀について打診を受けた際、「そんなことをしたら陛下は行かれなくなる」と伝えたというのである。
 A級戦犯合祀に踏み切った松平永芳は、宮司退任の翌年、『祖国と青年』誌の平成5(1993)年1月号で、「私の在任中は天皇陛下の御親拝は強いてお願いしないと決めていました」と語っている。さらに、共同通信の記者、松尾文夫に対しては、「合祀は(天皇の)御意向はわかっていたが、さからってやった」とさえ語っている(前掲『靖国神社の祭神たち』)。

⇒要するに、2007年までには、昭和天皇がA級戦犯の合祀そのものに反対であったこと──それは論理必然的に、引き続き親拝を行わないでいるところの、上皇も今上天皇も、反対であることを意味する──は周知の事実になったわけであり、今なお、そう断定しない者は、かつての私も含め、論外だろう。(太田)


コラム#14977(2025.6.1)

⇒というか、昭和天皇の頭の中じゃあ、「再起」=「再軍備」、なんであって、むしろ、「300年」どころか、自身じゃあ「未来永劫」日本には再軍備して欲しくなかったんだろうが、当時の鈴木貫太郎首相らへの「公的」発言の中では、さすがに「未来永劫」とまで言ってしまうと、自身のホンネがバレかねないので思いとどまった、ということじゃないかな。
 まさに、この天皇こそ、日本の歴史上最凶の、国賊であるのみならず、(これが重要なんだが)全人類の敵でもあること、を、せめて太田コラム読者には正しく認識して欲しいね。(太田)


コラム#15008(2025.6.15)

「日本の歴史上最凶の、国賊である」(コラム#14977)にはどうしても違和感が拭えない。

 ……『デジタル大辞泉(小学館)』によれば、国賊とは、「国の利益を害する者。国家に害を与える者。」です* が、昭和天皇が、日本の主権放棄(非武装/(米国等への)属国化)、を図り、それを実現させた人物である以上、上出定義に照らし、国賊であることは間違いないわけですが、そもそも、そんなレベルの大それたことを図った人物など、当時の日本には、記録に残っている範囲では、彼以外には存在せず、後は、当時日本の主権者であった彼に命じられてやむなく彼を幇助した者達しか当時の日本人にはいなかったのであって、しかも、これほど国賊度の強い物事を図った者など当時の日本人の中には一人もいなかったと見てよい以上、彼こそ、当時の、物心のついた、責任能力ある日本人達全員中の最凶の国賊であった、と断定していいでしょう。
 もちろん、反証があれば、ぜひ挙げてみていただきたい。
 次に、「日本の歴史上最凶」とまで言えるかどうかですが、意味がほぼ同じである売国奴まで範囲を広げて調べてみても、さしあたり、個名すら殆ど出てきませんでした。
 もちろん、例えば、戦後日本で言えば、主として「右」から「左」に対し、個名を挙げて国賊や売国奴といったレッテル貼りがなされることがある* けれど、そんなものは、「その国民の価値観とイデオロギーに基づく部分<──つまりは主観(太田)──>が大きい」* ことから、論外であり、私の考えでは、道義的(道徳的)国賊と言ってもよい日本人や日本の団体はあって、その私(わたし)的な典型例は、私の言うところの岸カルト員(自民党員)や旧統一教会関係日本法人群、であり、私は、彼ら/これらを国賊呼ばわりしているけれど、彼ら/これらは、単に、道義、道徳に反する形での国賊に過ぎず、昭和天皇が主権放棄なる、(日本の成文法に加えて、自然法や国際法や法の一般原則、を含む、広義の)法に反する形での国賊であることに比べれば、はるかにその「凶悪度」は低いと言えるでしょう。
 刑法に定められている外患罪──外患誘致罪と外患援助罪──を犯した者の「凶悪度」は、この両者の間に位置づけられるでしょうが、「現在までに適用された例はない」ので、* この意味での国賊は一人もいないことになります。
 では、どうして、より深刻な主権放棄行為が刑法の外患罪の中に罪として規定されていないのでしょうか?
 形式論理的には規定すべきなのかもしれませんが、それは、帝国憲法下の主権者である天皇が、また、現行憲法下の主権者である日本国民が、憲法改正手続きを踏まずに主権放棄行為を行うような事態が全く想定されていないからです。
 (憲法改正手続きを踏んで主権の全部または一部の放棄行為を行うことは全く問題ありません。日本はかかる手続きの上でEU的なものに加盟したり、どこかの国と合邦したり、まだ存在しないけれど世界政府に吸収されたり、することは完全に可能だということです。)
 以上から、憲法制定以降の日本の歴史の範囲では、昭和天皇は、最凶の国賊、と言えそうですが、それ以前の(ヤマト王権成立以降の)日本史全体でも同様ではないでしょうか。
 繰り返しますが、反証があれば、ぜひ挙げてみていただきたい。