先の大戦で日本が勝利できたのはなぜか
コラム#14360(2024.7.27)
第一部 問題意識と私独特の用語
1 問題意識
(2)先の大戦で日本が勝利できたのはなぜか
私のもう一つの問題意識は、みんなが異口同音に日本は先の大戦で敗北したと言うけれど、私は、大学時代から、日本は勝利したと考えており、むしろ、軍事的経済的には相対的に圧倒的に劣っていた日本が、いかなる背景、経緯の下で勝利を収めることができたのかこそを知りたいというものだった。
では、どうして日本が先の大戦──日本の場合は満洲事変から終戦まで(後述)──に勝利したと言えるのだろうか。
戦争の勝敗は、戦争による軍民の相対的な被害の大きさ等で判断すべきではなく、戦争目的を達成したかどうかで判断されるべきである、というのが私のスタンスであるところ、このことは、ベトナム戦争(~1975年)* や、少し古いが英仏百年戦争(1339~1453年)、* での勝敗を考えればしごく常識的なスタンスだと思うのだが、以下、申し上げるように、日本は、あらゆる戦争目的を達成したのだから、勝利したのだ。
日本の戦争目的が、(第二次世界大戦勃発後は独伊と共通の戦争目的になったところの、)経済ブロック廃止(自由貿易実現)(注1)、と、(それ以前からの、)対ソ(対露)抑止(注2)、及び、アジア解放(注3)、と、蒋介石政権打倒(注4)、であったことを思い出して欲しい。
注1
日本が先の戦争がらみで経済ブロック廃止を唱えたことはないが、「1929年~1933年の世界恐慌期に、資本主義主要国がブロック経済政策を採ったため、世界貿易はその4年間に7割が減少、その結果、欧米と日本で数千万人の失業者が出た。そのような社会不安を背景に、英・仏・米の「持てる国」グループと、独・伊・日の「持たざる国」の勢力圏をめぐる対立が深刻化し、ソ連社会主義政権に対しては双方とも警戒心を強めながら接近を模索するという複雑な外交関係の進展を経て、最終的に連合国と枢軸国とに二分されて第二次世界大戦に突入した。従って、帝国主義諸国がブロック経済政策を採ったことが世界大戦をもたらした直接的要因と言うことができる。」*
注2
「1938年11月の近衛文麿による東亜新秩序声明 (第二次近衛声明)で、東亜新秩序の建設により日満支三国相携による「共同防共の達成」を期すことが謳われた。また同年12月の同氏による「日支国交調整方針に関する声明」 (第三次近衛声明)では、日支防共協定を締結し、特定地点に防共目的で日本軍を駐屯し、内モンゴルを特殊防共地域とする方針を示した。1939年には三つの自治政府の合併によって蒙古聯合自治政府が誕生し、主席のデムチュクドンロブ(徳王)は就任宣言において「防共協和および厚生に最善の努力を行使」と謳った。1940年に成立した中華民国汪兆銘政権は和平反共建國を謳っており、同年11月30日に日本と中華民国汪兆銘政権は、共産主義的破壊活動に対する共同防衛及びその為の日本による蒙疆及び華北への軍隊駐屯を認める条項を含む日華基本条約を結んだほか、同日に日本、満洲国及び中華民国汪兆銘政権は共同防共の実を上げるために協力すること等を宣言する日満華共同宣言に調印した。また、1941年には華北に華北防共委員会が設置された。」*
注3
1943年11月6日の日本が主宰した大東亜会議での大東亜共同宣言に、「抑〻世界各國ガ各其ノ所󠄁ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦󠄁共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平󠄁和確立ノ根本要󠄁義ナリ󠄁然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽󠄁クナキ侵󠄁略搾取ヲ行ヒ大東亞隸屬化󠄁ノ野望󠄁ヲ逞ウシ遂󠄂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆󠄁サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂󠄂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全󠄁ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建󠄁設シ以テ世界平󠄁和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス」* とある。(引用者注: 口語訳)
注4
日支戦争中の1938年1月16日に第1次近衛文麿内閣が発表したいわゆる第一次近衛声明の中で、「帝國政府ハ爾後國民政府ヲ対手トセス帝國ト眞ニ提携スルニ足ル新興支那政權ノ成立發展ヲ期待シ是ト兩國國交ヲ調整シ更生新支那ノ建設ニ協力セントス」* 、また、1941年12月8日の米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書の中で、「中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ玆ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭(ヒイン)ヲ恃ミテ兄弟尙未タ牆ニ相鬩(セメ)クヲ悛メス──」* 、とある。
まず、経済ブロック廃止については、日本の対米英開戦前の1941年8月14日に先の大戦後の米英の目標を示した声明である、大西洋憲章(The Atlantic Charter)が発表され、その中で、「貿易障壁を引き下げること」が謳われ、「「勝者も敗者も」「平等な条件で」市場アクセスを与えられることを意識的に強調している。これは、──第一次世界大戦後に欧州内で確立された懲罰的な貿易関係を否定するものであった」* ところ、これでもって事実上達成され、「1947年10月30日に、米国ほか23ヵ国がジュネーブで調印し,48年1月から発効した──〈関税・貿易に関する一般協定General Agreement on Tariffs and Trade〉」* によって成就した。
また、残りの、対ソ(対露)抑止、アジア解放、国民政府打倒、についてだが、1947年には、対ソ抑止について、「3月12日にトルーマンは一般教書演説で米国が英国に代わってギリシアおよびトルコのソ連に対する防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」が、まずあげられるほか、──さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式で──マーシャル国務長官が、ソ連に対抗するための、欧州復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を始めた」* といった具合に、米国が全球的に日本等の肩代わりをして行ってくれる目途が付き始めていたし、蒋介石政権打倒については、支那における国共内戦が形勢が日本の提携相手であった中国共産党(注5)側に傾き始めたために、「1947年3月には蔣介石は「全面侵攻」から「重点攻撃」へと方針を転換することを余儀なくされた」* し、アジア解放については、インド亜大陸が1947年8月中旬に印パ両国に分かれた形で英国から独立を達成し──た* 」(コラム#10353)ことでもって、大勢が決した趣があった、ところだ。
注5
帝国陸軍と中国共産党が暗黙裡に手を握っていたことについて、コラム#7572、7820、10223、10273、参照。
……とにかく、日本は先の大戦に勝利したわけであり、そうである以上、敗北したことを当然視した上で行われてきた、戦後日本における様々な主張や議論はことごとくナンセンスだということになるわけだ。