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やらせ江戸時代史観

コラム#15215(2025.9.27)

やらせ江戸時代史観

(1)太平構想の策定

ア 始めに

 1600年の関ケ原の戦いの後、「秀吉が嫡男秀頼の成長まで他の摂関任官を許さず、秀吉没後暫くの間まで空位が続いていた──関白に、家康が──九条兼孝を就かせ」、* 1603年にその家康が自身を征夷大将軍に任ぜさせ、次いで1605年に秀忠への将軍職の「譲位」を認めさせたこと等によって徳川幕府の永続性を担保し、更に、1615年に豊臣家を滅ぼし、おまけに1620年に秀忠の娘の和子を入内させ(後述)、徳川本家は我が世の春を迎えたところ、その後の1623年には(近衛家の差し金だと思われる)鷹司孝子の家光への輿入れが決まっている(後述)ことを踏まえ、その間の1621~1622年頃ではないかと私は想像しているのだが、近衛家/島津氏、は、両者の首脳陣、具体的には、近衛信尋(1599~1649年)/近衛前子(中和門院。1575~1630年)母子、と、島津家久(1576~1638年)、が、密かに、第一次日蓮主義戦争に係る総括と反省を行った上で、慎重に熟慮を重ね、鳩首協議の上、将来における第二次日蓮主義戦争実施を念頭に、徳川本家を利用し倒すことを軸とする、江戸時代史の大まかな流れをあらかじめ決めるための構想──太平構想と名付けることとする──を策定した、と、私は考えるに至っている。* , * , *


エ 策定方針

(ア)大方針

 第二次日蓮主義戦争を将来決行するとの方針は上記総括より前から一貫しているが、今度は信長流ではなく秀吉流日蓮主義で行うこととしつつ、それを、日本を完全に中央集権化した上で、天皇を名目上の最高司令官とする形で行うこととする。
 これは、信長流と秀吉流の両日蓮主義のいいとこどりを意図したものだった。

(イ)日蓮主義戦争再開・完遂のための諸理論の構築

 能力、人格、資金負担能力的に適任であると目される、大名クラスの人物を慎重に見極めた上で、当該人物の説得に成功したら、彼を、人材発掘等に関して全面的に支援しつつ日蓮主義の理論化プロジェクトを推進させ、当該大名家にその諸成果を更に発展させつつ、武士や非武士指導層とメインターゲットに、理論化された日蓮主義の全体ないしはその一部、の普及を推進させ、それにも協力する。

(ウ)徳川氏を操縦

 aを前提に、武士(縄文的弥生人)の数を減少させないよう、徳川幕藩体制を維持しつつ、最適なタイミングで幕藩体制を解消して日本を完全に中央集権化した上で第二次日蓮主義戦争に着手する。


c 幕臣を文官化

 徳川幕府が、日本の完全中央集権化/日蓮主義戦争着手、を行う中心勢力になることは、この幕府を開いた徳川家康に、日本が第一次日蓮主義戦争を再開できなかった最終かつ最高の責任がある以上、あってはならない。
 よって、aが実現した暁においても、この将軍家には幕府に関しては引き続きそれまでの反日蓮主義性を維持させるものとし、そのため、近衛家/島津氏の具体的指示に従い、広義の幕臣の文官化(非武官化)策を推進することをこの将軍家に誓約させ、日本が、完全中央集権化され、日蓮主義戦争を遂行し始めた暁において、旧幕臣及びその子弟達に、この戦争を直接担わせることなく、もっぱらこの戦争に係る効果的な後方支援を行わせること、を目論むこととする。


(エ)摩擦最小限での徳川幕藩体制廃止を図るための朝廷改造

a 天皇家の日蓮主義家化とその内の天皇本家の縄文人家化

 朝廷に関しては、天皇家全般についてはその日蓮主義中立家から日蓮主義家への転換を推進しつつ、機会を捉えて、その内の天皇家本家の縄文人家(反日蓮主義家天皇家)への逆方向の転換を実現する一方で、その天皇家本家があたかも日蓮主義家化したままであるかのような印象を武士や非武士指導層には抱かせる、一見、二律背反的なアクロバティックな方策を講じる。
 (これらは、天皇家本家の反日蓮主義家化は、そうすることで、日蓮主義完遂戦争の成否や成り行きいかんにかかわらず、天皇制維持につながる可能性がある、ということを念頭に置いたものだった。
 要するに、これらは、島津氏/近衛家、の、信長流日蓮主義への固執の反省の上に立った信長流日蓮主義へのオマージュ、的な綱渡り的方針だった。)


(引用者が個人的に興味深かった箇所)

(ケ)光圀のその他の事績

 次に負のものだ。↓

「元禄7年(1694年)3月、5代将軍・徳川綱吉の命により隠居後初めて江戸にのぼり、小石川藩邸に入った。11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を刺殺した。光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後、突然刺したという。現場近くで目撃した井上玄桐の『玄桐筆記』に事件の様子が書かれている。幕府に出された届出によると、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せるようになり、家臣の間にも不安が拡がるようになっていたためであり、咄嗟の殺害ではなく、以前からの処罰が念頭にあり、当日の問答によっては決行もありうると考えていたようである。理由の詳細は不明だが、紋太夫が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。」 *

 これは、その理由が何であったにせよ、光圀の人生が、島津氏/近衛家、によって規定された他律的な受け身のものであったことを示唆しているのではなかろうか。
 たまりにたまった鬱憤を、光圀がこういう形で晴らした、と。


[田沼意次と松平定信の近縁性]

 私は、徳川家重と家治の時の田沼意次も徳川家斉の時の松平定信も、どちらも、島津氏/近衛家が指名したところの、幕府内のエージェントであったと見るに至っている。


⇒定信は、恐らくは(キリスト教のような教義宗教以外の)宗教や(朱子学の形而上学部分といったものを除く)思想や歴史が余り好きではない、いわゆる理系人間だったのではないか。
 そうだとすれば国学嫌いも説明がつく。
 「寛政12年(1800年)に定信は、文献から白河神社の建つ位置が白河の関であるとの考証を行った。」とされているが、これは、「職人に作らせた白河だるまは白河市の特産物で今でも毎年2月11日には「白河だるま市」という祭りで売られている。白河そばを特産物としたのも定信である。」の並びの挿話なのであって、要は、自分の白河藩のPR活動の一環であって、定信が歴史好きであったことにはならないと思う。
 (なお、定信が理系人間であったとして、そのこと、と、彼が文学や絵画好き人間であったこと、とは全く矛盾しない。)(太田)

 大名ながら起倒流柔術の鈴木邦教(鈴木清兵衛)の高弟で、3,000人といわれる邦教の弟子のうち最も優れた3人のうちの1人が定信だったと伝わる。自らも家臣に柔術を教え、次男の真田幸貫にも教えたという。隠居後も柔術の修行を怠らず、新たな技を編み出した。なお、定信が柔術を志した背景には、自身が病気がちで自己の鍛錬に努めたことにあったという。
 藩祖・松平定綱が家臣の山本助之進とともに編み出したと伝わる甲乙流剣術が廃れていたが、山本家に残っていた伝書をもとにこれを復元し、起倒流柔術を合わせて工夫を加え、甲乙流を剣・柔を融合させた内容に改めた。それ以前の甲乙流と区別するため、定信が改変した以降のものは「新甲乙流」と呼ぶ場合もある。
 藩校・立教館で指導されていた山本流居合術に、定信が編み出した技を加え流派の改良を行った。定信が加えた技は「御工夫の剣」と呼ばれた。
 砲術についても、三木流、荻野流、中島流、渡部流の4流全ての皆伝を得て、4流の長所を合わせて三田野部流を寛政年間に開いたが、その後、さらに多くの砲術流派を研究し、文化年間に御家流砲術を開いた。
 弓術においては、幼少より日置流を修行し、師の常見文左衛門から書を授けられるほどの腕前であったが、独自に工夫して流派を開いた。その後、さらに日置流を加え御家流弓術を開いた。」*

⇒定信が理系人間であったとして、そのことと、彼がスポーツ大好き人間であったこと、もまた、全く矛盾しない。

 以上から、定信は日蓮主義者と言っても、極めて即物的な日蓮主義者であって、国土防衛に遺漏なきを期した上で、勢力圏や緩衝地帯を広げ、望むらくは、潜在敵そのものを無害化する必要を訴えたもの、として日蓮主義を受け止めていた可能性が高い。(太田)