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平安構想(桓武天皇構想)

コラム#14360(2024.7.27)

2 新しい日本史:戦前まで
(2)聖徳太子コンセンサス
ウ 桓武天皇構想

 さて、天智朝に取って代わった天武朝は、聖徳太子コンセンサスに反し、唐を理想視し、唐の諸制度を日本に直接導入しようとした。
 (朝鮮半島において、(地名まで支那風に全とっかえする形で)大真面目に本当に唐の諸制度を導入し、(その後も日本では形の上はともかく実質的な導入がなされないままに終わったのに対し、)そのまま、20世紀の日韓併合に至るまで支那の歴代諸王朝を宗主国として崇める国家運営が行われ続けてしまう原因を作ったのが新羅だ。
 これは、プロト日本文明的文明から漢人文明へという、世界史的に見ても空前絶後の自発的な文明の切り替えであったのであり、それを、新羅に続く高麗も、更に続く(李氏)朝鮮も踏襲してきた結果が、現在の北半分の金家独裁王朝であり南半分の反日カルト国だ。)
 他方、支那では、中共が、建国前から日本文明の日本を模範としてきたところ、建国後は、とりわけ鄧小平が最高権力者になってからは、日本から積極的に学ぶ戦略をとってきており、習近平が最高権力者になってからは、更にその一歩を進めて、私の言うところの、日本文明総体継受戦略を推進すると共に日本を再軍備させるための反日政策をとるという、日本から見てマッチポンプ的対応を行なってきている。
 この天武朝を巧妙に打倒して天智朝を復活させた光仁天皇の譲位によりその跡を継いだ桓武天皇だったが、彼は、「大意が、天皇(具体的には光仁天皇)が天日嗣高座の業を天智天皇の初め定める法に従って受けよと自分に命じた。自分は恐れて進むも退くもできなくなったが、天皇の命なので即位する」との、天智朝復活宣言めいた即位詔を発して即位し、* 藤原氏と連携しつつ、桓武天皇構想を定め、武家創造/日本封建社会化プロジェクトを開始する。
(ちなみに、『竹取物語』は、醍醐天皇あたりが、紀貫之に命じて書かせた桓武天皇構想の情宣物語である、というのが私の説だ。
 私にそのことを気付かせたきっかけは、月(騎馬遊牧民国)からの軍隊が地球上でも五尺(1.5m)の所に全員浮いていた(騎乗していた)ことだ(コラム#13549)。
 ついでに言えば、かぐや姫は、月から送られたハニートラップ手法を駆使する工作員、軍隊は、この工作員回収部隊、といったところか。)
 この構想は、藤原氏から武家創始→桓武平氏から武家幹部家創始→清和源氏から武家棟梁候補家創始、の順序で実施に移され、それに概ね成功した証が、1019年の刀伊の入寇の撃退であり、それの完遂の証が、1185年の鎌倉幕府の成立、1221年の承久の乱によるところの、武家への権力移譲を経ての、1274、1281年の元寇撃退だ。(コラム#11375)
 また、慈悲行以外の毀損縄文性修復手段として、平安時代には、(紀貫之が担当した)和歌の奨励、(紫式部が担当した)源氏物語の執筆・回覧、が行われ、鎌倉時代初期に至って栄西が支那の臨済宗を参考にしつつ習合臨済宗(注7)(コラム#10123)を立ち上げると共に日本での飲茶を、私見では一種の格物的公案として、支那から持ち込んだ茶の種と茶の栽培知識と茶礼(されい)でもって再興したこと、を淵源として、室町時代に、習合臨済宗の寺が推進母体となって、(私見では住空間に神社/里山環境を取り込み、玄関なる結界を持つ(コラム#14339)ところの、)書院造文化、が、武家を中心に確立され、住空間が毀損縄文性修復の主要な場となった。(コラム#11375)

注7

 栄西が鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て初めて京都に創建した建仁寺が天台・真言・禅宗の3宗並立だった* ことがその象徴だ。
 天台僧であった栄西は、二度南宋に渡っているが、私は、遣唐使の成果たる真言宗と天台宗に飽き足らなかった武家達の総意を背景として、その南宋渡航費用を、(天台密教を掘り下げるのが目的であったと目される)1回目(1168年)は平清盛(1118~1181年)が、(インド渡航を果たせず止む無く臨済禅を持ち帰った)2回目(1187~1191年)は(彼が源頼朝の一周忌に導師をを勤めていること等* から、)源頼朝が、支援したのではないかと見ている。* ←渡航年、目的
 栄西が日本で飲茶を復活させた(上掲)ところにも、彼が、臨済禅を含む支那の禅に飽き足らない思いがあった──支那的座禅や公案それ自体は非生産的である、と気付いていた──ことを示しているのであって、武士の毀損された縄文性恢復方法論確立に向けての先達たる空海の真言宗と最澄の天台宗へのオマージュと自分の臨済宗への忸怩たる思いから、彼は、日本で、天台・真言・禅宗が習合した新宗派を興した、と、私は見ている。
 あえて、栄西の心中を推し量れば、慈悲行を謳う法華経を軸に仏教を総合的に広く学ぶことを奨励した日本の天台宗、* (人は生来的に悟っている──縄文人である──とする)即身成仏を謳い神仏習合/山岳信仰を奨励した真言宗、* , * , * , * 悟り(縄文化)を「感覚的、身体的体験で伝承していこうとする」点だけは彼が評価した禅宗、* といったところか。
 松平家/徳川家の宗旨は浄土宗であるところ、徳川家康が重用した天海は天台宗の僧、* 同じく、以心崇伝は臨済宗の僧、* で、家康の墓は((神道)久能山東照宮、(神道)日光東照宮、(浄土宗)大樹寺、のほか、家光により、秀忠と共に)真言宗の高野山にもある* ことが象徴的だ。


コラム#15215(2025.9.27)

2 節目を通して見た日本史概観
(3)平安構想(桓武天皇構想)

 光仁天皇の時から、同天皇の指示を受け、藤原式家の藤原種継(737~785年)をチームリーダーとして藤原家の中で策定作業が行われ、天応元年(781年)にその子の桓武天皇が即位した直後の782年に、武家創出/封建制移行、及び、(今回初めて述べるが)法華経を最重視する天台宗の継受、をその内容とするところの、(私の言う)桓武天皇構想が固まったことに伴い、平城京からの遷都を決めた、と、私は見るに至っている。
 つまり、桓武天皇構想は782年に策定されたのではないか、と。↓

「天応元年(781年)4月に桓武天皇は、即位するが、──翌天応2年(782年)になると、正月に氷上川継の乱、3月に三方王による天皇呪詛事件と天武系皇統による桓武天皇を否定する事件が立て続けに発生する中、──式家の──藤原種継──が参議に任ぜられて公卿に列す。──4月になると桓武天皇の詔により造宮省が廃止される。これは、遷都を見据えて平城宮にはこれ以上手をかけないことを表明したものである。──
 延暦3年(784年)「天皇はなはだこれ(種継)を委任し、中外の事皆決を取る」とまで評されるほど大きく政務を委ねられていた種継が中心となって、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を建議した。──同年長岡京の造宮使に任命され、事実上の遷都の責任者となった。遷都先である長岡が種継の母の実家である秦氏の根拠地山背国葛野郡に近いことから、造宮使に抜擢された理由の一つには秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられる。──
 延暦3年(784年)の遷都後間もない延暦4年(785年)9月23日夜、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日薨去。──
 最終官位は中納言正三位兼式部卿。享年49。種継は死後、桓武天皇により正一位・左大臣が贈られ、大同4年(809年)には太政大臣の官職が贈られた。」*

 だからこそ、初めてでも何でもない遷都ごときに藉口する形で種継は殺されたのだし、殺された種継を桓武天皇はこれほど↑も顕彰したのではないか、と。


 ……長岡京への遷都は、

「既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く、新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係、父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻ったことによる人心一新、難波津の土砂の堆積によってここを外港としてきた大和国が東西間交通の接点としての地位を失い(難波津-大和国-鈴鹿関ルートの衰退)、代わって三国川(現在の神崎川)の工事の結果、淀川-山背国-琵琶湖・近江国の経路が成立したこと(長岡遷都と難波宮廃止が同時に決められている)、などの説がある」*

 が、私は、この中で人心一新説を採り、その主眼は、天武朝の下で造成された「平城京が──唐の都長安城を模倣して──建造された」* ことを踏まえ、一事が万事の、天武朝の、唐かぶれにして鎮護国家志向性、を批判し排除するところにあった、と、考える次第だ。

「785年(延暦4年)──年9月に造長岡宮使の種継が暗殺された。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いた。そして桓武天皇の皇太弟早良親王もこの叛逆に与していたとされ幽閉・配流となり、親王は配流先に向かう途中、恨みを抱いたまま死去する。親王の死後、日照りによる飢饉・疫病の大流行や、皇后ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起こったことから、792年(延暦11年)6月10日にその原因を陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊によるものとの結果が出て親王の御霊を鎮める儀式を行う。しかし、その直後と2か月後の2度の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害を蒙った。このことから、治水担当者であった和気清麻呂の建議もあって、793年(延暦12年)1月15日には再遷都のための公式調査が葛野郡宇太村で行われた。2月には賀茂大神への再遷都奉告、3月には再遷都先の百姓に立ち退き補償が行われ、再遷都作業が始まった。そして長岡京への遷都からわずか10年後となる翌794年(延暦13年)に平安京へ遷都することになる。」*

 というのは、私は、ほぼ額面通りに受け止めているが、その際、平和を守る国の首都という消極的な意味の平城京(注6)と対照させる趣旨で、(単なる地名を付した長岡京とももちろん違った、)平和を作り出す国の首都という積極的な意味の平安京と名付けた、と、考えている。

注6

「柳田国男──は、山中で少しく平らな所を、ナル・ナロと呼ぶから、ナラス(均)という意味であって、奈良に平城の字をあてるのも同じであるとされた。──また、支那の都城建設の条件である四神相応(ししんそうおう)、すなわち東西南北の守護神(青龍、白虎、朱雀、玄武)に守られた形勝の地でもあった。」*

 そこで、この際、桓武天皇構想の「正式」名称を、平安構想、と、したいと思う。