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建国

コラム#15005(2025.6.14)

1 始めに
(4)参考:江南人・楚人・弥生人
ア 私の「江南人≒楚人≒日本史上の弥生人」仮説

 この際「日本史上の弥生人は、楚と同じ江南文化出身であること」について補足しておこう。
 「私は、「日本列島でのプロト日本文明/日本文明の担い手も、支那での漢人文明の担い手も、主体は水田稲作文化を生んだ江南人で同じであって、漢人と日本人は一卵性双生児的な間柄だというのに全く異なった文明を形成した」「概ね弥生的縄文人であった江南人」と述べ(コラム#14918)、また、この「日本人(≒歴史上の弥生人)江南人説は、説と言うより、両者の、DNA/水田稲作文化、の共有という事実、の、確認、に過ぎない」(コラム#14937)と述べてきたけれど、実は、「残念ながら弥生時代の草創期や早期のゲノムというのは、現時点ではほぼとれていない状況であり、──これは典型的な弥生人、つまり渡来系弥生人だといえるものは、早くても弥生時代中期、大部分は、後期からのものしかまだ見つかっていない」* ということから、縄文時代晩期や弥生時代の草創期や早期の日本列島に水田稲作文化をもたらした人々が江南人であったことの直接的な証拠はない。
 しかし、「5000年から4000年前の竜山文化に属する山東省膠州市趙家荘遺跡で──水田跡が発見されており、現在では小麦地帯に入る山東半島で稲作が行われていたことが判明している他、──紀元前3000年以降にはさらに北方の遼東半島、同2000年以降には朝鮮半島まで伝播したことが明らかになっていて、──その朝鮮半島の慶尚南道と慶尚南道の東端境に位置する蔚山市* にあるオクキョン遺跡(紀元前1000年頃)が、日韓合わせて最古の水田遺跡である」* ところ、日本列島で「現在、確認されている最古の水田跡は今から約2500~2600年前──紀元前930年頃──の縄文時代晩期中頃の佐賀県の菜畑遺跡だが、その──遺跡からは、韓国慶尚南道の──大坪里遺跡出土土器の系統から影響を受けた「朝鮮無文土器系甕」や、朝鮮式の石包丁、鍬などが出土している一方で、朝鮮半島の無文土器文化の担い手は、江南文化の流れを汲んだY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)の人々──つまり、江南人(太田)──であり、朝鮮半島に水稲農耕をもたらしたのも同集団であると考えられている」(上掲)ことから、日本列島に水田稲作文化をもたらした人々もまた江南人であった可能性が極めて高いと言えよう。
 いずれにせよ、「ゲノムから見た弥生時代の特徴は、遺伝的に非常に多様だったこと」とか、「縄文時代、弥生時代、古墳時代の人骨から得たゲノムを比較して、古墳人には、弥生人にはない別の渡来要素がある」とか* 前掲、は、「プロト日本文明/日本文明の担い手」の「主体」が、(仮に私の指摘のように弥生時代を創始/形成したのが江南人であったとして、その)江南人であることを否定することにはならないのであって、それは、私が、漢人文明の担い手の主体が江南人である、と、主張していることの意味を想起していただければ、自ずから明らかだろう。」(コラム#14944)


コラム#15215(2025.9.27)

プロローグ–ヤマト王権誕生のゆえん
高句麗

⇒要するに、高句麗、というのは、西欧のヴァイキングのような、掠奪を生業の重要な柱としていた人々の集団名であったところ、西暦紀元初期に国家を形成し、ヴァイキングが遠征先で形成したノルマン公国やキエフ公国が、それぞれ、イギリスと南イタリア、ロシア、を征服しように、後漢の辺境地域を奪取し、更には、三韓にも食指を延ばしてきた、というわけだ。
 高句麗が朝鮮半島北部を占拠してしまい、(江南文化系の楚人が主導権を持っている)漢との、陸路や山東半島との海路による、円滑な通行、ができなくなり、同時に朝鮮半島南部(の馬韓、弁韓、辰韓)に侵攻する可能性が高まったことは、朝鮮半島南部や日本列島の大部分の諸国に強烈な衝撃を惹き起こし、その危機意識を否が上にも掻き立てたに違いなかろう。(太田)


日本の第一次対外戦争

⇒江南文化系の漢が滅びこそしたけれど、三国時代の最強国であった魏も、その事実上の創始者の曹操は江南──豫州沛国譙県(現:安徽省亳州市譙城区)の出身──であり、* 265年に成立した晋は280年に支那再統一を果たすが、* 王家の司馬氏は中原の現在の河南省の司隸河内郡温県孝敬里* , * 出身とはいえ、江南文化系の魏を承継したことから、晋もまた江南文化系であると言ってよいだろうが、その晋が、「古代支那において北方の中原的都市文化を共有しない遊牧民族である──北狄」* や西戎の氐* に、(その後、東晋という形で南朝を興したとはいえ、)滅ぼされてしまい、北支那が五胡十六国時代に入った的な情報も伝わってきたであろうところ、繰り返すが、高句麗の成立と南進がもたらした大衝撃との「合わせ技」に、超ど級の衝撃を朝鮮半島南部や日本列島の諸国は受け、危機意識で打ち震えたに違いない、と、私は見ている。
 今にして思えば、高句麗の成立と南進、と、北支那における五胡十六国時代の到来、の背景には、寒冷化の影響があったわけだが──。(コラム#15214)

 この二つの、ほぼリアルタイムの大衝撃が惹起した危機意識は、自分達は広義の遊牧系集団や国家に対する安全保障を確立しなければならないとの認識をこれら諸国の間で生み、多数の諸国が互いに小競り合いを繰り返しながら併存していた三韓中、高句麗に接壌するに至っていたところの、馬韓と辰韓において、それぞれ、連合統一国家を形成して安全保障を確保しようとする運びとなり、馬韓では百済、辰韓では新羅、という統一国家が成立した(後で再述)──弁韓の諸国では、馬韓の百済と辰韓の新羅が緩衝になってくれている上、日本列島諸国によって守られているという意識から統一国家は成立しなかった──ところ、同じく、多数の諸国が互いに小競り合いを繰り返しながら併存していた日本列島においては、百済と新羅の防衛努力だけで十分であるとは思えないとの意識の下、邪馬台国の臺與(とよ)または壹與(いよ)(235~?年)の次ないし次の次あたりの女王──私は神功皇后(注10)に比定──が、4世紀半ば頃に、馬韓と辰韓に倣って日本においても統一国家形成とその国軍の朝鮮半島への派兵、高句麗の壊滅、ひいては、できうれば東晋と連携して東晋と高句麗の間に盤踞する北狄系/西戎系勢力──337~370年は鮮卑の前燕、370~383年は氐の前秦──の駆逐を図るべし、的な呼びかけを邪馬台国以外の諸国に行い、まずは、先駆けして模範たらんと、北九州及び弁韓地域を対象とした、邪馬台国を中心とする有志連合を形成し、邪馬台国のナンバーツーたる男性にこの有志連合の軍勢を率いさせて弁韓地域に布陣させるつもりだが、邪馬台国等の軍勢の主力を弁韓地域に送り出せば、その背後を中九州以南から脅かし続けてきた熊襲勢力が北九州に侵攻してくるのは必至なので、ヤマト地方の応神天皇を戴く国に対し、近い将来における邪馬台国等を含む全日本列島諸国が参加する連合統一国家樹立を含みとして、本州でも諸国と有志連合を組んだ上で、その本州連合軍でもって、北九州経由でまず南九州の熊襲を壊滅させた上で、朝鮮半島渡洋を決行するよう呼びかけたところ、重い腰を上げた応神天皇(注11)を戴く国、を中心として、本土の過半の諸国がこの邪馬台国の呼びかけに賛同し、実行に移したのではないか、そして、熊襲を壊滅させた後、弁韓地域諸国や百済と連携しつつ、また、日本列島諸国に近親憎悪的メンタリティーを抱いている新羅はアメとムチ手懐けつつ、高句麗に侵攻した、と。* , * , *


日本列島における連合統一国家樹立(応神天皇)

 しかし、やがて高句麗の南進の食い止めには成功しつつも高句麗を壊滅させることまでは(支那の南朝の不甲斐なさもあり、)不可能だと悟った応神天皇らは、対高句麗戦が膠着・小康状態になった時点で、後は、基本的に百済と新羅に任せ、日本列島における連合統一国家樹立を図ることとした、と、考えたいのだ。