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聖徳太子コンセンサス

コラム#15215(2025.9.27)

2 節目を通して見た日本史概観
(2)聖徳太子コンセンサス(日本文明への変貌宣言)

 厩戸皇子は、当時の日本の至上命題は、日本の存立を確保するために、(私の言う)縄文人を(私の言う)弥生的縄文人が統治する(私の言う)プロト日本文明を、(私の言う)縄文人を(私の言う)縄文的弥生人が統治する(私の言う)日本文明、へと変貌させることであるという問題意識の下、弥生的縄文人を縄文的弥生人へと変身させる方法論、と、こうして縄文的弥生人へと変身させられた者の(私の言う)弥生人への更なる劣化──取り返しがつかなくなる恐れがある──を回避させる方法論、とを見出すべく、潜在敵である隋に遣隋使を派遣することにした、と、私が見ていることはご存じの通りだ。
 その上で、日本で精強な騎馬兵力等を養成・維持することに資する国制を模索すると共に、仏教の中から毀損縄文性を修復する方法を模索する、という具体的指示を遣隋使メンバーらに示したのではないか、(そして、隋滅亡後、遣唐使も、この指示の下、引き続き送られたのではないか、)と、私は考えるに至っている。
 そして、後者に関しては、国内で自身ができることもあるとの考えの下、種々模索した結果、一番参考になると思ったのが法華経だったのではないか、と。


コラム#14360(2024.7.27)

2 新しい日本史:戦前まで
ア 隋が漢人文明の主となった衝撃

 589年に、支那で、漢人文明を形成したところの、江南文明系を支配者とする漢が解体され、魏晋南北朝時代(三国時代→五胡十六国時代→南北朝時代)を経て、ついに、漢人化したところの、騎馬遊牧民の鮮卑系を支配者とする隋が漢人文明の主になった。* , *
 ヤマト王権の支配層は、渡来人系で、遡れば江南文明系だった──江南はジャポニカ米稲作発祥地だった* ことも想起せよ──こともあり、故郷と日本の双方を案じる強烈な危機意識を抱いたと私は見ている。
 (ヤマト王権の朝貢先は、東晋を含め、旧江南文明地域の諸王朝──南北朝時代は南朝の宋、南斉、梁──のみ。(コラム#13759)* , *

イ 聖徳太子コンセンサスの形成

 そこで、厩戸皇子は、単なる外国たる大国の隋に、対等の立場で、600年に遣隋使──遣使諸国中の最後!──を送り、仏教の勉強目的に藉口して要員を派遣し、騎馬遊牧民系勢力に対する軍事的対処方法やこの対処を行う戦士創出方法を密かに探らせると共に、仏教についても、かかる戦士が毀損されるであろう縄文性(人間主義性)を修復する方法を、仏教東伝の主要ルートを扼していた北朝系の隋でしかアクセスできない、まだ日本に伝わっていない仏教の経典群や宗派群の中から(法華経が謳う慈悲行以外のものを)見出だせないか、を、調査させることにした、と、私は見ている。↓


コラム#13051(2022.10.12)

 ……覚えておられないのかもしれませんが、私見では、日本仏教の最大の歪みは、日本人──基本的にはみな縄文人──は人間主義者であって既に悟っているので、悟りを勧める仏教など必要ないにもかかわらず、仏教が、国家鎮護や個人的御利益に資するものとして日本に導入され、やがて、神仏習合の形で、日本に定着してしまったところにあるわけです。
 ついでに、これも覚えておられないかもしれませんが、私見では、厩戸皇子は、縄文人の中から縄文的弥生人を創り出そうとしたけれど、創り出される縄文的弥生人が縄文性(人間主義性)を維持したり回復したりするために仏教が役に立つのかもしれないと考えたけれど、後世の人々はついにそれを支那仏教の中で発見することはできなかったものの、更に後になって出現した栄西なる仏僧が、神社的環境を日常生活の中に取り入れることで、それに成功するわけです。
 但し、日本の仏教は、日本人の美意識の向上や芸術の発展──上出の動画にも日蓮信徒の長谷川等伯* の話題が登場する──に大きな役割を果たしましたし、日蓮の思想ないし日蓮主義の形成を通じて、日本のみならず、世界に決定的な変化をもたらすことになったということも、申し上げてきたところです。


コラム#14163(2024.4.20)

[十七条憲法再訪]

 私は、厩戸皇子は「聖徳太子コンセンサス」を密かに掲げ、このコンセンサスを完遂した暁に日本に確立するであろう弥生性の担い手達の縄文性(人間主義性)が毀損するであることを見越し、当時の日本の為政者達に代わって日本の新たな為政者達になるであろう彼らに、その縄文性の回復・維持の縁にしてもらうべく、当時の日本の為政者達にとっての常識(注106)を、文章に起こした、と、見るに至っている。

注106

別の文脈の中でではあるが、吉川真司(コラム#11554)は、「十七条憲法は当時の(太田)君主制・官僚制にとって当たり前のことばかりである」と指摘している(上掲)。

 それ自体に規範性はないが、その精神に則って、来るべき武家たる統治者達は法規を策定して欲しい、と厩戸皇子が要請したことが伝えられていたからこそ、

 「鎌倉幕府の──1232年の──御成敗式目は、──全51条である。この数は17の3倍であり、17は十七条憲法に由来する。」*

 と考えられる。
 このことは、室町幕府にも分かっていた。

 「室町幕府の──1336年の──建武式目は、──構成は2項17条であり、──聖徳太子の制定した十七条憲法に影響されたとも考えられている。──
 武家の基本法である御成敗式目に対して建武式目は武家政権の施政方針を示すもので、拘束力がある法令ではないとも、御成敗式目の改廃をともなう法令ではないともいわれている。」*

 室町幕府は、規範性のない十七条憲法を補足する憲法的諸条文を「十七」掲げたわけだ。
 江戸幕府の、何度も改定が行われた武家諸法度はそうではないが、1615年の禁中並公家諸法度は17条である* のは、武家諸法度の条文数は十七ではないけれども、以上のことが分かっていることを表明するために、わざわざ十七条からなる禁中並公家諸法度を策定したのだろう。