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弥生人

コラム#14360(2024.7.27)

3 頭の整理
(1)人間(にんげん)の類型
イ 弥生人
(ア)騎馬遊牧民

・弥生性が跳ね上がった契機は鐙の誕生

 「鐙が出現するまで、騎乗者は両足の大腿部で馬の胴を締め付けて乗馬していた。姿勢は不安定で、馬の激しい動きに追従するのは難しかった。特に軍事目的で馬を利用する場合、不安定な姿勢で武器を使うのは極めて困難であった。このため騎乗したまま戦う技能(騎射など)は、騎馬民族以外には長期間の鍛錬が出来るごく一部の貴族階級が有する特殊技能であった。
 鐙のルーツは西晋時代の支那もしくは満洲に在り、──発明されたのは西暦290~300年頃とされる。」*

(コラム#4910、4930、10982も参照)

・支那以外にも食指を伸ばした、匈奴(鐙前)、モンゴル
・支那にだけ食指を伸ばした、鮮卑、女真、等
・支那以外にだけ食指を伸ばした、広義のアラブ人
 弥生性が跳ね上がった契機はイスラム教の形成
 弥生性が近年再び跳ね上がった契機はIT社会の到来(コラム#7444) 


(イ)ゲルマン人

・印欧語族は、牧畜と農業を両輪としており、移動ひいては拡散志向だった。また、多神教を信じていたが主神がいた。
 分化後も、イラン・アーリア人、ケルト人、ギリシャ人、が大移動し、拡散している。
・印欧語族中、ゲルマン人も大移動し、拡散しているが、そのプロセスが、長期にわたって領域獲得的ではなく山賊・海賊的であった点で、印欧語族中では特異。
 そのゲルマン人弥生性が跳ね上がった主たる契機は北欧神話(コラム#74、10813)の形成であり戦うことが自己目的化した。


 日本は、6世紀末の鮮卑系の隋から始まり女真人の清にまで至る騎馬遊牧民の脅威、16世紀から始まったゲルマン人の脅威、17世紀から始まったところの以上の2つが混交したロシアの脅威、(7世紀に始まったが日本は埒外であり続けてきたところ)20世紀に再び高まったところの広義のアラブ人の脅威、への対応を余儀なくされてきた。


コラム#15369(2025.12.13)

[私の言う弥生人の生誕について]
一 ゲルマン人(第一弥生人)の生誕

 つまり、西進した印欧語族中、最も弥生性が強いのがゲルマン人であり、そのゲルマン人の中から、反転南侵したうちの1回目の者たちは更に弥生性が強く、反転南侵したうちの2回目の者達──広義のヴァイキング──は、それより更に弥生性が強く、この広義のヴァイキングの中で海賊的侵攻を行うこととなったところの、狭義のヴァイキングともども、世界最高度の弥生性を帯びた人々である、ということになりそうなのだ。


二 騎馬遊牧民(第二弥生人)の生誕

 西方において、第一弥生人とでも称すべきゲルマン人を生み出した印欧語族は、印欧祖語地域で、第二弥生人とでも称すべき騎馬遊牧民もまた生み出したわけだ。
 しかし、西方や南方は既にそれなりに弥生性の強い印欧語族勢力が盤踞していて騎馬遊牧民たる印欧語族の進出が妨げられたことから、進出しようとすれば東方しかなかったこと、しかるに、騎馬遊牧民文化は、その文化の性格上、伝播速度が極めて速いたため、東にいたアルタイ諸語族にあっという間に普及(上掲)し、彼らが強い弥生性を帯びてしまったためにこれも果たせないまま終わったのだろう。
 アルタイ語族中、13世紀になって最大の帝国を築くことになるのがモンゴル語族のモンゴルであり、印欧語族生息地を唯一縮小させることに成功したのがテュルク語族のオスマントルコであり、また拡大漢人地域の最後の支配者となったのがツングース語族の清である、といったところか。*

 (この第二弥生人には、大きな弱点があった。
 それは、彼らが、弥生性において弱い定着民との交易だけに飽き足らなくなって定着民から時々略奪している間はまだしも、恒常的略奪目的で定着民を支配するようになりがちで、そうなった途端、通常自分達より圧倒的に数が多い定着民の統治に自らの精力とマンパワーを割かねばならず、それだけでも、自分達のそれまでの耕戦の民ならぬ牧戦の民的な青壮男性総兵員体制を維持できなくなる上、専業兵員として残った者も、もはや騎馬遊牧生活を続けるのは困難になっている以上、日常生活即軍事訓練とはいかなくなって練度が急速に低下してしまうのは必定であり、こうして質量とも不足するに至った兵力を定着民でもって補わざるをえないところ、この定着民兵力を質量とも脆弱なままにしておけば物の役に立たず、さりとて、強力なものに仕立て上げたら上げたで、その、反乱の脅威や外敵と通じた脅威等が高まり、どっちに転んでも詰んでしまう、という弱点だ。
 騎馬遊牧民が多数の定着民を支配する国の寿命が高が知れていたのはこのためだ。)